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脚気と森鴎外 -アトリエN- [アトリエN]

 『江戸煩(わずら)い』という奇妙な病気があった。日本の米食は長い間玄米が中心で、白米は高貴な人々の食べるものであったが、江戸時代になって、一般庶民までが白米を食べることができるようになった。江戸に行けば仕事があって、しかも白いおまんまが食べられるというので、地方から人々が江戸の町に押し寄せたのである。ちなみに当時の江戸の人口は、百万を超えていて、世界最大の都市だったという。
 ところが、その江戸で奇妙な病気が流行し始めた。地方からやってきた人々が体調を崩すという現象が頻発したのである。足元がおぼつかなくなったり、怒りっぽくなったり、場合によっては寝込んでしまう。そんな人々が故郷に帰ると、症状がぴたりとおさまってしまうのだ。そこで『江戸煩い』と呼ばれるようになったこの病気は、ビタミンB1欠乏症すなわち脚気なのであった。
 その脚気が、明治になると軍隊の中で大流行するようになる。
 明治八年の陸軍の報告書によると、軍隊では百人のうち二十六人が脚気になり、陸軍では22パーセント、海軍でも5パーセントが死亡した。
 海軍医務局長・高木兼寛はイギリス留学中に、ヨーロッパに脚気がないことに着目し、これは白米を中心とした日本の兵食に原因があるのではないかと考えた。そこで遠洋航海実験で、蛋白を増やした糧食により脚気の発生がなくなることを証明した。彼は周囲の反対を押し切り、明治18年以降、兵食を麦飯に切り替えて、海軍の脚気を根絶することに成功した。のちに判明したことだが、蛋白は関係なかった。結果的に麦食が脚気を根絶したのは、ある意味で結果オーライという側面もあったのだ。
 ところが、陸軍の医務方トップであった森林太郎(鴎外)は麦飯の効果を認めず、海軍が正式に麦食を採用してからも、さらに20年もの間、陸軍兵食に麦を採用することを許さなかった。その背景には、陸軍と海軍との感情的な対立があった。もともと海軍は陸軍から分かれたので、日本陸軍には伝統的に「陸主海従」思想があり、そのため、メンツの上からも、海軍の主張を受け入れるわけにはいかなかったのだ。その結果、日清・日露の戦争では、海軍の脚気死者がほとんどいなかったのに対して、陸軍においては3万人もの脚気死者が出るという惨禍を招いてしまった。
 それだけではなく、「脚気菌」の存在を否定した北里柴三郎を激しく非難し、脚気治療薬としてビタミンを世界ではじめて発見した鈴木梅太郎の業績をも、痛烈に批判したのである。鴎外のこの言動がなかったら、日本人最初のノーベル賞は鈴木梅太郎のものだったといわれている。
 森鴎外は「舞姫」や「阿部一族」で著名な明治の大文豪であり、医学者としても超エリートだったが、こと脚気については歴史に大汚点を残しており、しかも死ぬまで脚気細菌説を捨てなかった。
 むしろ彼が凡人であったなら、3万人を超す死者を出すような愚は犯さなかったのではあるまいか?超秀才にして超エリートといわれるような人間が犯す過ちは、暗愚な人のそれよりも、はるかにタチが悪いと云えそうである。
 遠い明治の話だろう、って?
 いやいや、日進月歩の科学に対して、人間そのものはほとんど進歩しない。
 古代ローマのユリウス・カエサル(シーザー)に較べて現代日本の政治家が、その知性や人間性において優っていると誰が言えるだろうか?
  N田さん

脚気.png
脚気。イラスト提供:イラストAC https://www.ac-illust.com/

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