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【なな山植物誌】シュンラン 春蘭 ラン科 [なな山だより]

3月になると寒さを破ってシュンランが咲き始めます。シュンランは光合成をしますが、半分以上のエネルギーは土中の菌類からもらっているとのことです。ですから日影でも充分に生きていかれるわけです。この方法を部分的菌従属栄養と言います。シュンラン属のマヤランは、光合成をせず、完全な菌従属栄養植物(腐生植物)です。植物が光合成をしなくなるということは、シュンランのように光合成と他から栄養源を取り入れる部分的菌従属栄養の段階を経て、完全に他の生物に寄生する進化がおこるとのことです。私たちはシュンランが光合成をやめる進化の過度期に遭遇しているようです。数百年後、数千年後のシュンランは一体どんな形になっているのでしょうか。
  N原さん
       「なな山だより」45号より

P1なな山植物誌.JPG
シュンラン

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献木十万本 -アトリエN- [アトリエN]

 明治四十五年7月、明治天皇が崩御され、その御陵は京都の伏見桃山に造られることになったが、東京にも明治天皇の御霊を奉斎する神社を作ろうという運動が、三井の創始者である渋沢栄一を中心として沸き起こった。
 その熱意にこたえ、大正2年には衆議院で神宮の造営が決定された。
 その場所をどこにするかという問題が残り、東京は青山練兵場跡や代々木御料地・小石川植物園など、東京府以外では千葉の国府台・埼玉の宝登山などのほか筑波山・箱根・富士山などが候補に挙がったが、最終的には代々木御料地にしぼられた。代々木御料地は武蔵野台地の一部で、もともとは彦根藩井伊家の下屋敷であった。その地には幹の周囲が10.8メートルにもなるモミの木が立っていた。
 ちなみに代々木というのはモミの木の別名なのである。
 神域は昔から鬱蒼とした森の中にあることとされており、時の総理大臣・大隈重信らは、日光や伊勢神宮のように杉の大森林にするのがよいと考えた。しかし造営技官たちは別の意見を持っていた。一般に針葉樹は煙害に弱い。大正の時代ですら東京では汽車や工場排煙などによって杉やモミなどの林が消失する現象が見られるようになっており、東京の気候風土にはむしろ常緑広葉樹が適していると考えた技官らは『カシやクスノキなどは雑木ではないか』と渋る大隈らを粘り強く説得し、最終的には大隈も納得した。
 代々木御料地のあった地域を内苑とし、絵画館や運動場のある地域を外苑とし、参拝道路である表参道を含めて明治神宮として、造営計画がスタートした。宗教学者の中沢新一氏は『アースダイバー・東京の聖地』で、代々木の内苑は内に向かって「閉じる」ことを原理とし、これに対して青山の外苑は外に向かって自らを開こうとしており、これは日本固有の古墳である前方後円墳に内在する根本思想と同じものであるとしている。
 計画には十二万本を超える樹木が必要であったが、候補地に自生する樹木は1万3千本程度で、とても足りないし、苗木から育てるのでは時間がかかりすぎる。そこで神宮造営局は植栽予定の12万本のうち10万本を一般国民からの献木で賄うこととした。
 献木の条件としては
 ◎外国の木は不可とする。
 ◎華美な花や実をつける観賞用の木は不可とする。
 ◎簡単に枯れない木であること。
 ◎若木が暗い場所でも育つ『陰樹』であること。
 などが挙げられたが、全国から東京に運び込む費用は献木者の全額自己負担とされ、趣旨に賛同した鉄道会社や海運会社が輸送料金を半額にしたものの、今日ならば大臣のクビが飛んでも不思議ではないような過酷な条件であった。
 しかし、当時は日本の領土であった、北は樺太から南は台湾までを含む日本全国から献木の申し出が殺到し、個人としてサカキ5,000本,ヒサカキ5,000本を献木した例もあった。
 ちなみに参道に立つ大鳥居は二代目だが、はるばる台湾から運ばれてきたタイワンヒノキが使われている。
 最終的に全国からの献木は95,559本に達し、全樹木の86%を占めることになった。
それらの樹木を植栽する労力もまた国民の奉仕に期待することとし、造営局は各地の青年団に協力を募った。それに応えて11,129名,延べ11万人が無料奉仕に参加した。
 今日ほどには重機類も乏しい時代である。
 運搬にも植栽作業にも困難を極めたのは想像に難くない。
 神域にふさわしい荘厳な大森林が一朝一夕にできるわけもなく、時間をかけて、自然の中で安定した林相とすることが求められる。
 そこで技官たちは理想の森に向かって遷移するように、4段階の予想林相図を作成した。
 第一段階は一時的な仮設の森である。
 樹冠を構成する高木にはアカマツ・クロマツを配置し、その間に成長の早いヒノキ・サワラ・スギ・モミなどの針葉樹を交える。その下層にはスダジイ・シラカシ・アカガシ・クスノキの常緑樹、最下層には灌木類を配置する。
 第二段階は樹冠の最上部を占めていたマツ類がヒノキ・サワラなどの成長により圧倒されて、次第に枯れる。
 第三段階は下層に植えたカシ・シイ・クスノキなどの常緑広葉樹が成長して優占木となる。その間に前の優占木であったスギ・ヒノキなどが混交する。
 第四段階はカシ・シイ・クスノキ類がさらに成長し、150年前後で自然林の姿となる。
単調な林にしないために計画に矛盾しない限りにおいてクロマツ・サワラ・コウヤマキ、風致木としてイチョウ・エノキ、カエデ類なども植栽されることになった。
 現在は造成の完了からおよそ百年が経過しているが、おおむね計画通りに生育が進んでいる。
 代々木の名のもとになったモミの大木は第二次大戦時の空襲により焼失していまはなく、昭和20年4月14日の大空襲においては200発以上に及ぶ焼夷弾が敷地内に落下して神宮の社殿も焼失したが、燃えにくい常緑樹が多かったため、延焼が阻止されたという。
 現在は造林計画の最終段階に入ったところだが、空襲に耐え、大気汚染にも耐えて順調に成長している様子は、人々の熱誠に自然が応えている貴重な実例の一つではないだろうか?
  N田さん

明治神宮.jpg
明治神宮。写真提供:写真AC https://www.photo-ac.com/

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シノダケ・ヒンメリ56 様々な多面体:「斜方二十・十二面体」の作り方・その2(つづき) [シノダケ・ヒンメリ]

前回は、「斜方二十・十二面体」(下の図)の作り方を途中まで紹介しました。

斜方二十・十二面体.jpg
斜方二十・十二面体

前回までで、下の図のようになっています。

前回の作品.jpg
前回の作品

1)先ず、外周の3角形の辺に正方形を作ります。
右のワイヤーに部材を2本、左のワイヤーに部材を1本入れて結びます。
(図は、左右が逆に作っていました。)
(説明と一致しない図で、ごめんなさい。)

手順1.jpg
手順1

横から見ると、下図のようになります。
正方形の間に5角形が見えてきます。

横からの図.jpg
横からの図

2)まず、5角形を作ります。
その上で、入れた5角形の辺の上に正方形を作ります。
先程と同様に、右のワイヤーに部材を2本、左のワイヤーに部材を1本入れて結びます。
(図は、左右が逆で、説明と一致していません。)

手順2.jpg
手順2

3)後は、出来た5つの正方形を繋いで、ワイヤーを処理すれば完成です。
ここまでは、ワイヤーを繋いできましたが、ここでは、一気にワイヤーを纏めていくことになります。

手順3.jpg
手順3

最後は、あっけなく終わります。

最初に述べましたが、「斜方二十・十二面体」の面の形状に正方形と五角形があることから安定した形にはなりません。
キレイに形を出すように写真を撮ってみましたが、正方形がいびつな4角形になります。

正方形がいびつな4角形.jpg
正方形がいびつな4角形

いっそのこととつぶしてみると下の図のような形でドーナッツのような形で比較的安定しました。

ドーナッツ状.jpg
ドーナッツ状

今回はここまでです。
次回は、「斜方二十・十二面体」として形が出せないか、やってみましたので、その結果を紹介します。
  N山さん

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【イベント・活動紹介】 三方の森ふれんど 夏祭り [なな山だより]

日にち:9月8日(土)場所:多摩市三方の森コミュニティー会館

百草団地周辺地区地域福祉推進委員会「三方の森ふれんど」は、今年初めて地域の子どもや大人、高齢者の多世代交流を目的とした「三方の森ふれんどまつり」を三方の森コミュニティー会館で開催した。地域住民約200人が参加したお祭りになな山のメンバーは「ぶんぶんゴマ」や「ヒンメリ作り」のブースを設けてたくさんの子供たちが参加しました。
       「なな山だより」45号より

イベントフレンドまつり ヒンメリ製作指導.JPG
ヒンメリづくりを手伝う

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クヌギ(樹) -植物標本- [なな山緑地の植物標本]

植物標本は、植物がその時その場所に生えていたことの証であり、地域の自然環境の歴史的変化を知る唯一の手がかりとなっています。なな山緑地の会では、2016年より緑地内の植物調査を兼ねて牧野標本館へ寄贈するべく植物標本を作っています。
制作:なな山緑地の会 植物標本プロジェクト
同定協力:内野秀重さん

このコーナーでは、2016~2017年制作した標本を随時紹介していきます。原本をご覧になりたい方は、N原さんに声をかけてください。

20160726MAK002クヌギ(樹).jpg
クヌギ(樹)

採集日:
2016年4月19日
生育環境:
陽当たりのよい道添い
ノート:
ひと株、樹高4m
整理番号:
No. 051

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